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衛紹王

衛紹王(えいしょうおう)は金の第7代皇帝(廃帝)。諡は紹王、すなわち衛紹王とは「衛の紹王」である。諱は允済(ユンジ)、後に永済。女真名は果縄(ハヒェン)。

世宗の第7子、生母は李元妃。子に皇太子の梁王従恪らがいる。同母兄に鄭王允蹈、同母弟に潞王允徳。

父の存命中には薛王、滕王に封じられ、甥の章宗により潞王、韓王に封じられ、沙汰に承安2年に衛王に封じられる。このころ、異母兄である宣太子允恭(章宗の実父)が皇帝位(顕宗)を追贈されたために忌諱し、名前を「永済」と改めている。

長身の美男子で質素な人物としての評価がある一方で、暗愚な一面も認められる。章宗の命によりモンゴルへの正使として、宗室の福興(完顔承暉)を副使に従えてモンゴル平定直前のチンギス・ハーンの所へ赴いた。だが衛王の容貌を見たチンギスは愚鈍であると言い放ち、わざと衛王を無視して副使の福興に対応し、謁見が終わると自らの幕舎に帰った。かつてない屈辱を受けた衛王は帰朝後、章宗に対して野粗で野蛮なモンゴル族を滅ぼすべきであると直訴している。
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章宗が崩御する間際、6人の皇子を夭折させていた章宗は、親密で年齢が近い叔父である允済を後継者に指名して崩御した。このことにより允済は皇帝に即位することとなった。衛王即位の報を聞いたチンギスは、暗愚な允済の即位を吉報とし、仇敵の金を滅亡させる好機であると考え、遠征の準備に着手した。なお、チンギスは衛紹王の皇帝即位の報を聞いた際に「中国の皇帝は天上の人がなると思っていたが、衛王ごときでもなれるとは……あんなうつけ者に何ができるか?」と言って南に向かって唾を吐いた(金王朝はモンゴル人達から見れば南の方にあるため、それにあてつけたもの)と今に伝えられている。また、允済もモンゴル軍の来襲に備え、準備を調えた。1211年春、チンギス・ハーンは本拠地に2000騎程を留め、残るモンゴル軍全軍を率いて金遠征に動き出した。騎兵のもつ長所を最大限に活用し、華北地方を縦横無尽に駆け回るモンゴル軍の侵攻に対して、允済は有効な対策が取れずにいた。允済は定薛将軍に命じてモンゴル軍侵攻の防御に当たらせたが、定薛将軍を初め金軍は敗北、壊滅した。また遼の旧宗族(広義の皇族)であった契丹人の耶律留哥が自ら遼王と称してモンゴル軍に呼応し、謀反を起こしている。

1213年8月、敗戦責任を追及される事を恐れた将軍胡沙虎の兵乱により、允済は幽閉された。翌月に胡沙虎の命を受けた宦官の李思中によって毒殺されている。

允済の死後、胡沙虎は海陵王の例に倣い、帝号の剥奪を計画した。朝廷内には允済に同情的な勢力が存在することから、東海郡侯への降格が決められた。しかし胡沙虎が殺害された後の貞祐4年、即位直前の衛王に復されて「紹」の諡号が追贈されている。衛紹王の娘である哈敦(ハトン)公主は跡を継いだ従兄の宣宗の命で、モンゴルへと下嫁した。彼の息子である太子の従恪は父が毒殺された後も20年間も幽閉されたが、1234年の金滅亡時にモンゴル軍によって処刑されている。

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2009年05月31日 13:26に投稿されたエントリーのページです。

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